第3章 覇道の一里塚 上篇
七宝院の僧兵が人の事言えるのか?と後ろで聞いていた椿は思わずにはいられなかったが、取り敢えず黙って聞く事にする。
「この辺りで割菱と聞くと…」
樹下は右手で顎に僅か生えた無精髭を摩って、思い返すような仕草をした。
「ええ、ご想像の通りですよ、樹下教諭。…武田家です。そう名乗っていましたよ」
やっぱりそうか。綾香は内心溜息をついた。
出先の東京での「異端審問」の為、下調べに伺った教会で聞いた噂の通り。好意的なシスターからの気の良い勧めで購入した海洋深層水を手渡されながら聞いた敷島軍と悪僧の衝突は寡兵の敷島軍が不利を悟って一旦兵を引いた。しかし、七宝院も御坊に榴弾が撃ち込まれて「日本人」や「敷島人」の避難民諸共を多量に殺されたそうだ。それを小競り合いと敢えて言う所を見ると、七宝院、脛に傷が出来たか。綾香は顔に出さずに苦々しく思った。
七宝院の本山がある八ヶ岳の甲州側は復古武田氏の兵舎がある所であり、恐らく七宝院目掛けて押し出して来たのは武川衆であろう。想像に難くない。特に、幕府陸軍の評定所総裁―「日本」で言えば、陸軍参謀総長である―を務めさえした甲斐国守護の武田信賢の性格からして、降って沸いたような僧兵集団―少なくとも、「敷島人」はそう考える―にやっと取り返した父祖の故地を掠め取られては堪らない、という所だろう。腹から吐き出された熊の雄叫びにどやされて、武田の兵はきっと「お館様よりマシ」と踏んで、悪僧の集団に飛び込んで行ったのだ。勿論、降って沸いた武田の輩に七宝院も殺られるわけには行かないから、当然両者の衝突は必然となる。
「武田方には再三、話し合いを求めましたが、こちらに返されたのは『矢弾の備えが足りぬなら、撃ち込んで融通してやる』との脅し文句のみ。こちらも、やるしかないでしょう?」
僧兵は心底ウンザリした様子で語った。