第3章 覇道の一里塚 上篇
「まあ、ご安心を。そうならないようにアイツがいる」
「彼女が特別な人間なのは承知した。だが、幾らなんでも」
樹下の反応は至極真っ当である。だが、それが晴政には面白くて堪らなかったのか吹き出すように短く笑い、そしてすぐに笑いを引っ込めた。
「アレは感じ易い女だ。ご心配には及ばない」
「いちいち卑猥な表現だ、な」
「そういう風に考えるからだ、旦那が」
急にハンドルを切り、車体が傾いたようにさえ感じた。樹下はどうにか掴まれて倒れなかったが、間一髪である。僅かに目をやれた綾香は、相変わらずだった。
「ご無事で?」
「ああ、だが感謝はしない」
樹下はやや動揺しているのか、多少滅裂した事を言っている。樹下自身が言ってすぐにそう思った。九戸はそれに気付いたのか気付いていないのか知れぬが、しかし、そこには何ら触れなかった。
「奴ら、取り敢えず引いたようだな」
「なぜ分かる?野生の感か?」
「いや、七宝院の方が気付いてくれたようだ。妙なのが侵入して来たんで、警告したんでしょう。奴らも手練ている。気づかない訳がない」
樹下は揺らされていてそんな所にまで気が付かなかった。尤も、追われているのにさえ気付かなかったわけだから、やむを得ない話である。
「彼女、中浦さんだったかな?一応、名義上は〈世話役〉だったな」
「皆さんの合宿が終わって、渋谷に帰るまでは恐らく世話役でしょう。途中どっかに出るかもしれんが、代わりは私なり、補欠なりがやる」
「補欠さんはどこに?」
「…山の中だ。潜ませてある。金髪碧眼のドイツ女だ。アイツには言ってないが。理由は聞かないで欲しい」
九戸は聞かれる事が分かっていたようだ。
「アイツは可能な限りここに留まるでしょう。恐らく、皆さんの危険を齎す何かが他所にない限りはね」
「他所にあればどうするつもりだ?」
「勿論、殴り壊す。あれはそういう奴だ」
「…どうしてそこまでやるんだ?見ず知らずでしかない人間の為に」
九戸は含み笑みを浮かべた。
「馬鹿な奴でしょう?どこまでもお人好しなクリスチャンガールさ。聖書の教養なんか端末の便利さで省みない癖に、ちゃんとキリスト者やってやがる、どうしようもない馬鹿さ」
揺れる車体に足を据え付けるように力を込め、僅かに笑いを漏らした晴政を見据えて樹下は問うた。