第3章 覇道の一里塚 上篇
腰を据えたのも束の間、中腰に立ち上がって前席へ半身を乗り出した亜紀の問いかけに湊は僅かに頷いた。応じて何か声を掛けようとしたが、突然、ガタッと車体が揺れた。何かを踏み越えたようである。中腰の態勢では揺れに耐え切れず、亜紀はそのまま腰を席へ落としてしまった。また立ち上がろうとしたが、綾香が摩っている手を止めて、手で亜紀にそのままで居るように促した。初めて会ったばかりの女に指図されるのは気に入らなかったが、しかし、自身にも込上がり始めた気持ちの悪さが彼女を席に押し留めた。
それにしても、この女。
亜紀は左手に色の付いたビニール袋を直ぐに開けるように握ったまま、右手で湊の背を摩っている綾香に妙な違和感を覚えた。湊どころか亜紀まで来始めているこの車内の揺れ具合の中、一切グラつく様子もなく、人様の背を摩っていられる綾香の安定感。時折、急なブレーキが掛かって、席に居る者が体を仰け反らせる中、微動だにしない。何かに掴まりもせず、湊と椿が座って居る席の僅かな隙間に立っているのだ。湊の様子が気になっていた為ずっと見ているだけで気が付かなかったが、一度気になると、正直おかしい、そう思えた。
違和感を覚えたのは亜紀だけではなかった。傍らに居る椿も、そして前方の運転席の傍らに居る樹下も、妙な感覚を覚えずにはいられなかった。どちらかと言えば肉体派の椿からしても、精々「脚に力が入っている」、「武道の心得がある」という二点ぐらいしか思い付かなかったが、運転席に寄っている樹下は掴まり立ちをして運転手にもう少し丁寧に運転してくれるよう頼みながら、チラっと綾香の方へ視線をやっている。椿と視線が合うと目を逸らしたが、人類学者である故にこういう変わり種が気になるのか、と椿は漠然と思った。それ程、異様なのである。
椿と目が合い、思わず視線を逸らした樹下は再び、傍らの元凶に声を掛けようとしたが、先を越された。
「気になりますか、アイツ?」
「えっ…?」
樹下の言う事など意に介さなかった晴政が突然話し掛けて来た。
「案外、いい女でしょう?派手に見えて、質素。柔和に見えて、剛健。まあ、女に使う言葉じゃないが、逞しいでしょう?それにあの手の女は案外情け深く、ハマれば暫く愉しめるというものだ」
樹下は冷ややかに視線を運転手へ落とした。