第3章 覇道の一里塚 上篇
今居る大内山の地は大河内御所軍の南部への最前線である。南部には同じ北畠家の親類、赤羽(あかば)御所家の支配する紀伊長島がある。一門であるのだが、北畠家の政治的な、そして軍事的なライバルである紀州総督府徳川家と伊勢守護北畠家が対峙するに及び、大河内御所はいわゆる最前線にある赤羽御所家を「潜在的な内通者」と見做して、大内山に強兵を揃えているのである。
つまり、いつでも滅ぼせるように。
大内山と紀伊長島の間には伊勢守護管理の公営鉄道があり、天変地異後も変わらずに運行してはいるのだが、線路は取り替えられてはいるものの四国家時代より遡って、日本国があった時代から少なくともあったわけで、北畠がとりわけこの区間に望んで設けたわけではない。ましてや北畠一門の内訌ゆえに列車の往来がこの区間だけ極端に少ないのだ。嘗ては人口が少なく、やむを得ない事ではあったが、今はどちらも賑わっている程であり、それでいて一時間に一本あるかないか。途中の梅ケ谷(うめがだに)の駅に至っては最早在ってないような物だと聞き及んだ。私が、こうして無為に過ごしているのは、紛れもなく、乗り損ねたからである。都会並みにとは言わないが、せめてもう少し便があればここに一時間以上も待たなくて良かった筈である。それに、少しぐらい定刻過ぎても、乗客無しで発車するな。運行が無駄ではないか。
…ほら貝の音が聞こえて来た。時計を見れば午後に差し掛かる頃だ。電波時計は先頃の天変地異で機能麻痺しており、ネジ巻仕掛けの旧態然としたタイプの時計が敷島人、日本人問わず売れているそうだが、地元の民はこの音で正午を知ると云う。
大内山を支配するのは、平家の末裔を自称し、累代の北畠家臣下として知られた大内山家とその当主 大内山但馬守頼光(おおうちやま たじまのかみ よりみつ)である。現に、北畠の白地に「割菱」の紋が染め抜かれた軍旗を最上段に、あちらこちらに赤地の旗が見受けられる。当代当主 頼光の趣味で、割菱を左右二本杉で囲う紋に改めている。北畠家を守護する事を誓った、御丁寧な文様だが、実質は親類衆でしかない大河内御所の尖兵に留まっている。そして、実際大河内の軍権を握っている若御所、大河内侍従具家が、一体どれほど彼等の忠誠を信用しているかを考えると、大内山の先行きも暗い。