第2章 はじめての時間
episode04.君は
この頃の君は、教室の隅で一人、その黒目勝ちな両眼を淀ませていましたね。何かを恐れているような、諦めているような、そんな悲しい目でした。けれど私の前ではいつも悲しい顔を伏せ、次に見せる顔は決まって笑った顔でした。
椚ヶ丘中学校三年E組の担任となりはじめて取った出欠、誰よりも真っ直ぐに私を捉え、明るく返事をしてくれた君に、僅かにあった不安が払拭されてくのを感じた。
君の声は、学校特有の喧騒の中でも良く聴こえる。
自然の奏でる音よりも柔らかく、すっと私に馴染む。
あの小さな悲鳴も鮮明に聞こえた。けれどだからこそ、君の声にならない叫びに気付くことが遅れてしまった。
自分のことを優しくないと言っていたね。辛そうに眉尻を下げながら。ならばどうして君は立ち止まったのです。杉野君の元気を取り戻した様子にほっとしていた君を私は見逃さなかった。君の知らない本当の君を、見つけてあげられる気がしていた。見つけてあげたかった。
君は優しい。
その優しさに私は溺れた。溺れてしまった私に、君は尚も寄り添い続けてくれる。
苦しさはもう麻痺していた。残ったのは確かな温もりと、残酷なまでに甘美な依存。
私は未だに鬼胎を抱いている。
「ありがとう先生、助けてくれて」
「いえいえ、生徒を助けることは先生として当然のことです」
木々の騒めきと共に降ってきた君を受け止めたこの時からずっと。
君を助けられたという実感は、終ぞ感じることはできなかった。