第1章 朧月夜
「…で、白石。あれから何か喋れたん?」
黙ってシャープペンシルで数式を書いていると、不意に謙也の声が降ってくる。
誰と? などと聞くまでもなく、謙也が顎をしゃくって指した先に居たのは高野小夜の姿。
そういえばこの前、「白石お前、もしかして高野のこと…」なんて見当外れな質問をされて、やむを得ず話したんだったなと思い出す。
「…一回だけ」
言いながら思い出すのは、いつかの休み時間中のこと。
普段は休み時間中には来ない担任教師が「コレ頼むわ」と、何かプリントの束を持って、高野小夜の席にやって来たのだ。
「分かりました」と受け取った彼女が、プリントに何かを書き込む作業を始める。
一部始終を見ていた白石は、小さく深呼吸をして「高野さん」と、前の席に向かって言った。
間髪いれず、勢いよくこちらを振り向いた彼女に
『手伝おか?』
と、努めて平静に申し出ると、元々大きな瞳を更に大きく見開きつつ「あ、えっと…」と返事をする言葉を探し始める。
そして、ほどなくして帰ってきた返事は
『私に任せてもろた仕事やし、お気持ちだけで大丈夫…』
と、丁重なお断りの言葉だった。これが、白石蔵ノ介と高野小夜との間で初めて成立した会話である。