第1章 朧月夜
始業式から数日経ったある日。
初老の男教師の背後の黒板には、目一杯の大きさで「自習」の二文字が書かれてあった。
「えー…今日は吉岡先生が風邪でお休みなので授業は自習です。プリント置いとくから、これ解いて静かにしときぃや」
と、しわがれた低い声がそう言った。
しかしそんな教師の忠告は虚しく、次の瞬間には大半の生徒が自分の席を飛び出した。
友達とふざけあいながらでも、自習プリントを進めているならまだいい方で。
中には雑誌を広げたり、漫画の最新刊を広げたり、ギャグを見せ合ったりと、休み時間並みに皆の笑い声がこだました。
かくいう白石も普段の自分の席ではなく、謙也の机とその前の席の椅子を借りて、彼と向き合う形で自習に取り組んでいた。
雑談の片手間に、数式をプリントに書いていると、耳の奥底に残っている声がふと蘇る。
―なぁ、あの子ってさぁ…
―アレやんな。めっちゃ感じ悪い子
小春から聞いた話の限りでは、最初にそう言っていた人間なんてごく限られた人数だったのだろう。
それでもその人間たちが言い続けることで噂は広まり、同じように噂を囁く人間がどんどん増えて今に至る…と考えた方が自然だ。
―何かめっちゃ性格悪いんやろ?
―目つきも悪いし…見下してきてる感ハンパないやんな
火のないところに煙は立たぬとは言うが、所詮噂は噂。
噂話とは得てして、一個人の価値観の押し付け、面白がって加えた法螺話の集合体に過ぎないのが定席だ。
その中に「本当の高野小夜」の意志はどこにも存在しない。
言ってしまえば、噂話の中にはどこを探しても「本当の彼女」がいないのだ。
本当の彼女は、どんな口調で、どんな物腰で、どんな表情を浮かべて喋るのか。
その裏で、どんな気持ちを抱えているのか。
知りたいと思ったのは、一種の好奇心なのだろうか。
一回、喋ってみたい
そんな気持ちが頭をもたげ始めた頃には、ちょくちょく彼女を目で追って隙を伺うようになっていた。