第19章 深水杏可也
「ふふ。波平にもよく言われたものです。私は狡いって」
杏可也は伏せた目をそのまま閉じて、懐かしげに笑った。
「あの頃は本当に良かった・・・。何の荷もなく身も心も軽くて、思い出すと楽しい事ばかり」
「・・・・杏可也」
深水が気遣わしげに杏可也の顔を覗き込んだ。
「・・・磯に戻りたいか?」
胸の上に組まれた杏可也の手をとって優しく握ると、深水はフと苦い笑みを漏らす。
「愚問だな。許せ。しかし私は、どうしても私達の子供に会いたいのだ。手前勝手な事を言うようだが、子が産まれて来るまでは堪えて欲しい・・・頼む、杏可也」
「当たり前の事を仰らないで下さいまし。・・・産まれて来るお子だって、父親に会いたい筈です。私もあなたと離れたくは、ありません。・・・本当に」
「そう言ってくれるのは嬉しい事だが、杏可也・・・」
「また難しい顔をなさって、怖いようですわよ?笑っている方があなたはうんと男振りがいいのに」
深水は溜め息を吐いて苦笑した。
「・・・・休みなさい。後で頼んで粥なりと持って来よう」
「はい。杏可也は大人しく寝ています」
「うむ」
「・・・・・海士仁と磯辺さんは・・・・」
言いかけた杏可也に深水は首を振る。
「心配要らない。牡蠣殻の事は砂の方々が何とかして下さる。海士仁には私が手を打つから安心しなさい。・・・いいかね?」
「・・・・はい」
杏可也は頷いて小さく息を吐き、しみじみと深水を眺めた。
がっしりした体に笑うと人懐こい鹿爪らしいこの顔を、物心つく前から知っている。
砂に嫁いでいた間も杏可也を忘れ得なかった不器用で生真面目な男。
「・・・旦那様。杏可也は旦那様といると安心します」
一途にひとつ事を追い続ける姿勢は深水の生き方というより、深水という男そのものなのだろう。
一度失った寄る辺にも似た彼の懐に抱かれて過ごすのは、芯から寛いで休まる事だった。
「・・・・旦那様。海士仁にはもう会わないで下さい」
手を伸ばして深水の袖を捉えて訴えると、息が詰まったような声が出た。
立ち上がりかけていた深水は座り直して笑った。
「会おうとは思わぬ。しかし会うだろうな」
誰一人知る者は無し、しかしながら奇しくも不肖の弟子牡蠣殻と同じ物言いをして深水はスイと背筋を伸ばした。