第5章 一歩ずつ進む
「……ご、ごめん。待ってた?」
「はい。まぁ、でも練習してるんだなと思って、邪魔しないようにここにいただけです」
「そっか…」
中入っててもよかったのに、とか。寒くなかった?、とか。言いたいことは山程あったが、どれもうまくでてこない。なまえの意外な行動に、すっかり動揺してしまっていた。
うまく笑えてない俺を一瞥すると、なまえはゆっくり立ち上がって一言「帰りましょうか」と言った。
「……メール、」
「なんですか?」
「ありがとね。遅くなっちゃって、ごめん」
とりあえずそれだけ言った。実は一緒に帰るのは初めてで、彼女の歩幅も帰る方向すらわからない。俺のすこし前を歩くなまえを追っかけるように進んだ。
「あのですね、メール、」
「ん?」
「苦手です。打つの、まだ慣れないです。電話は、まぁ、なるべく出るようにしますよ。3分で切るかもしれませんけど」
「さ、さんぷん…!カップ麺しかつくれないよ」
「充分じゃないですか」
「…急にどうしたの」
「及川さんが言ったんでしょう。努力というやつですよ」
俺のほうは見ないまま、なまえは早口で言った。もしかしなくても、今朝の件を謝っているつもりなのだろうか。言われてみれば確かに、今まで携帯を使っていなかったのだから慣れるまで時間が必要なんだろう。
…くそ、ずるいな。こんなの、ずるいじゃんか。
不本意だが、本当に本当に不本意だが、なまえからのメールが、このお誘いが、死ぬほど嬉しいと感じてしまった。俺のことなんか、1ミリも考えてないと思ってたよ。でも、彼女は彼女なりに、俺と向き合おうとしてくれている。
不器用で、下手くそだとしても。
…まぁ、もうしばらくは、このまま頑張ってみようか。耳まで真っ赤にしている彼女の背中を、俺は黙って見つめてた。
一歩ずつ進む
(20150630)