第8章 強かもの〜葉月椎視点〜
「…椎?」
『……!!』
彼女の声で、現実に引き戻される。彼女は、まだ暗闇に慣れない視界でぼんやりと椎の姿を捉える。
そして、その小さな手をこちらに伸ばしてくる。
「…どうしたの…?そんなに、風邪…つらかった?」
気がつくと、両頬は涙で濡れていた。彼女は小さな雫をそっと拭う。
本当にこの人は優しい。しかし、この優しさは自分だけに向けられるものではないのだろう。
『俺…寂しかった…。』
「…え?」
『昨日、ずっと絵夢がいなくてっ…寂しかったっ…!!』
急に現実を叩きつけられたようで、自分の感情が抑えられなくなる。それに比例して、声の大きさも増していく。
『わがままなんて…言えないから、今までも独りだったから…大丈夫だと思った。』
こんなことを言っても、彼女を困らせるだけで何の解決にもならない。
頭では理解していても、口をついて出る言葉が尽きることはない。
『けどダメだったっ…絵夢がいつもの時間に帰ってこないと…寂しくて、つらくてっ…!』
これが俺の本心。彼女には見せるまいと、胸の奥底にしまっておいた醜い心。
熱のせいかは知らないが、再び視界がゆがんでくる。
『テレビ見ても、寝ようとしても…絵夢がいないと…いつもの部屋なのに、どこか知らない場所に置いていかれたみたいで…。』
彼女は呆れただろうか。それとも幻滅しただろうか。居候の分際で、身の程知らずな言葉を吐き続ける男に。
_____スッ
彼女の手が頬から頭へと移動する。そして、いつものように優しい手つきで髪を撫でる。この感触は、あいも変わらず心地よい。
『もっと…近づきたい…。』
これが今の一番の願い。彼女の好きなものも、どんな表情も、彼女の過去も未来も、全部知りたい。彼女は、きれいな瞳をそっと細めて
「…ありがとう。」
そうだ。彼女はこういう人だ。人に呆れたり、幻滅したりなど決してしない。
人を大事にできる人。太陽みたいにあたたかく、俺の心を溶かしていく。
「それと、ごめんなさい。私も…ちょっと大人気ないところ、あったから…」
ちょっと照れたように肩をすくめる彼女は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
窓から差し込んだ朝日が、彼女をさらに明るく照らす。自分には手に届かない存在。けれど、近づく努力くらいは許してほしい。