第10章 神野区の悪夢編
――嫌よ。
――私の個性を、奪われるわけにはいかない。
――自由だって、誰にも渡さない。
彼女には、守りたいものがあった。
自分が積み重ねてきた時間も、これから歩むはずだった未来も。自分自身が何者であるのか、その答えを知る権利さえも。
こんな場所で、こんな男に奪われてたまるものか。
「逃がさないよ」
背後から、穏やかな声がした。
ぞくり、と背筋が凍る。
振り返るよりも早く、彼女の背後に人影が迫った。
「っ、離し――」
腕をつかまれ、身体を引き戻される。
抵抗しようと肘を振り上げた瞬間、もう片方の手が彼女の口元を塞いだ。
薬品の染み込んだ布地だった。
「んっ……!」
鼻と口を覆われ、彼女は反射的に顔を背けた。男の腕を引き剥がそうと両手を伸ばし、身体を捩る。
だが、個性を使えない今の彼女に、オール・フォー・ワンの拘束を振りほどくことは容易ではなかった。
「暴れないでくれ。せっかく、君とゆっくり話せる機会ができたんだ」
耳元で囁かれる声が、ひどく遠く感じられる。
息を止めようとした。
しかし、抵抗するたびに肺が酸素を求め、呼吸が乱れる。薬品の刺激臭が鼻をつき、意識が徐々にぼやけていった。
「……っ、ぅ……」
視界が揺れる。
崩れかけた建物。遠くから響く爆発音。助けに来てくれたはずのヒーローたちの姿が、頭の中をよぎる。
もう少し。
あと少しだけ、耐えれば。
誰かが、ここまで来てくれるかもしれない。
彼女は最後の力を振り絞り、男の腕に爪を立てた。
けれど、その手から徐々に力が抜けていく。
「そうだ。もう休むといい」
オール・フォー・ワンの声が、頭の奥に沈んでいく。
悔しかった。
自分の個性が使えないことも。目の前に助けがあるかもしれないのに、そこへ辿り着けないことも。そして何より、自分の意思とは無関係に、身体の自由を奪われていくことが。
――誰か……。
助けて。
声にならない叫びを胸に抱いたまま、彼女の膝から力が抜けた。