第10章 神野区の悪夢編
オール・フォー・ワンは、彼女の顎から手を離すと、ほんの一呼吸置いた。
「まずは、その素晴らしい個性をもらおう」
あまりにもあっさりとした宣告だった。
「そして、その後は……僕の家族になってもらうよ」
「…………は?」
思わず、彼女の表情が固まった。
今、何と言った?
個性を奪う。その話までは理解できる。だが、その後に続いた言葉は、あまりにも予想外だった。
「捨て置くには、もったいない美貌だ。君ほどの女性を、ただ失ってしまうのは惜しいからね」
オール・フォー・ワンは、まるで既に決定した未来を語るように続けた。
「一生、僕のそばにいてくれ。君なら、きっと退屈しない人生を送れるだろう」
その瞬間。
彼女の中で、何かが完全に切れた。
「――冗談じゃないわ!」
鋭く踏み込む。
顎を拘束していた手が離れた隙を逃さず、彼女は身体を捻り、渾身の力を込めて男の腹部へ蹴りを叩き込んだ。
ドッ、と鈍い音が響く。
「……!」
医師が息を呑んだ。
個性を使えないはずの少女が、目の前の男に躊躇なく攻撃を仕掛けたのだ。
オール・フォー・ワンの身体がわずかに揺らぐ。
彼女はすぐさま距離を取り、破れたドレスの裾を翻して構え直した。素足に近い足元。手元に武器はない。個性も使えない。
それでも、戦う意思だけは微塵も揺らいでいなかった。
「個性を奪うだけなら、まだ話は分かるわ」
彼女は男を睨みつける。
「でも、あなたの家族?一生そばにいろ?……誰がそんな要求を受け入れると思っているの?」
仮面の奥から、沈黙が返ってきた。
やがて。
「……ははっ」
オール・フォー・ワンは、腹部を蹴られたことなど気にも留めていないかのように、愉快そうに笑い始めた。
「素晴らしい。実に素晴らしいよ」
その声には怒りも、侮辱された者の苛立ちもなかった。
むしろ、先ほどまでよりも強い興味が滲んでいる。
「普通なら、命乞いをするか、恐怖で言葉も出なくなるところだ。それなのに、君は僕を蹴り飛ばした」
男は一歩、彼女へと近づいた。