第10章 神野区の悪夢編
オール・フォー・ワンは、傍らに置かれていた黒い仮面を手に取った。
医師が一歩下がる。男は慣れた手つきで仮面を顔に装着すると、肘掛けに置いていた手をゆっくりと持ち上げた。
そして、長い時間をかけるようにして、椅子から立ち上がる。
管が擦れる音が、静まり返った室内に響いた。
「さて……」
低く、穏やかな声。
オール・フォー・ワンは彼女を見つめたまま、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
その視線が、純白のウェディングドレスをなぞった。
「実に素晴らしい」
まるで美術館に飾られた芸術品を鑑賞するような眼差しだった。
「純白のドレスが、よく似合っている。君の美しさが、いっそう際立っているね」
「……何が言いたいの?」
彼女は眉ひとつ動かさず、男を見据えた。
「スカートに自分で切れ込みを入れたのも見ていたよ。あの状況で、動きやすさを優先するとは。なるほど、ただ美しいだけではないらしい」
モニターで一部始終を見ていたのだろう。
彼女が目を覚まし、ドアを調べ、脱出の手段を探していたことも。ドレスの裾を破り、誰かが入ってくる瞬間を狙って身を潜めていたことも。
すべて、この男の掌の上だった。
「……気色悪い」
吐き捨てるように告げる。
オール・フォー・ワンは、怒るどころか楽しげに喉を鳴らした。
「ははっ。率直だね」
次の瞬間、男の手が伸びた。
「っ……!」
顎を捉えられる。
無遠慮な指先が、彼女の顔を上向かせた。逃れようと首を引いても、その手は容易には離れない。
仮面の奥から向けられる視線に、彼女の背筋を冷たいものが走った。
「僕はね、美しいものに目がないんだ」
まるで親しい相手に秘密を打ち明けるような口調だった。
「希少な個性。優れた才能。そして、磨き上げられた美貌……。君は、実に多くのものを持っている」
「私をどうするつもり?」
彼女の声は冷ややかだった。
恐怖を表に出すつもりはない。相手はオール・フォー・ワン。数多くの個性を奪い、数え切れない人間の人生を踏みにじってきた怪物だ。
不用意な言動ひとつで、状況が悪化する可能性もある。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。