第10章 神野区の悪夢編
彼女は扉の前へ移動した。
呼吸を整え、足音を殺す。扉が内側へ開くなら、その死角に身を潜める。相手が一人なら、入室した瞬間に制圧する。複数なら、最初の一人を盾にして隙を作る。
状況次第ではあるが、何もせず捕まっているよりはましだった。
扉の向こうから、かすかな物音がする。
彼女は壁に背をつけ、身を低くした。
――誰が入ってきても、最初の一瞬を逃さない。
そう心に決めた、そのときだった。
空気が、不意に歪んだ。
「……っ!?」
扉の前。
何もなかった空間に、黒い霧が渦を巻く。
彼女が反応するより早く、霧の中から輪郭が浮かび上がった。
黒霧。
「お迎えに上がりました」
穏やかな声。
その声が聞こえた瞬間、彼女は反射的に身をひねった。
しかし、遅かった。
背後から伸びた黒い霧が、彼女の身体を包み込む。
「しまっ……!」
踏み込もうとした足が、床を捉えられない。
視界が黒く塗りつぶされていく。
個性を使おうと意識を向ける。けれど、やはり何も起こらなかった。
「……っ、離しなさい!」
声は、黒い霧の中に吸い込まれていく。
抵抗しようにも、足場がない。身体の感覚が曖昧になり、どこへ向かっているのかすら分からなくなる。
ほんの一瞬。
世界が、途切れた。
次に視界が開けたとき、彼女は知らない部屋に立っていた。
先ほどの薄暗く、かび臭い部屋とは違う。
空気は乾いている。機械の稼働音が低く響き、複数のモニターが青白い光を放っていた。
研究施設。
最初にそう判断した。
視線を走らせる。
壁際には、年老いた男が立っていた。白衣を身にまとい、こちらを興味深そうに眺めている。
そして、その隣。
椅子に深く腰掛けた、巨大な男。
身体のあちこちにチューブがつながれ、顔の大部分は損傷しているように見えた。モニターには複雑な数値が表示され、機械が男の生命を支えていることを示していた。
彼女は、息を止めた。