第10章 神野区の悪夢編
「……私に、何をさせたいの?」
鏡の中の自分に問いかける。
純白のドレスをまとった女性は、何も答えない。
ただ、赤い唇を引き結び、まっすぐにこちらを見つめ返している。
彼女は、ゆっくりと拳を握った。
個性は、まだ使えない。
森で土魔獣が自分を恐れた、あの不可解な現象についても、何ひとつ分かっていない。
ここで不用意に力を使おうとしても、また何も起こらないかもしれない。
だからこそ、焦ってはいけない。
相手の目的を見極める。
隙を探す。
そして、必ずここから脱出する。
そのために、今は冷静でいる必要があった。
「……大丈夫」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
「私は、こんなところで終わらない」
部屋の中を、もう一度くまなく観察する。
壁。床。天井。ベッドの下。小さなテーブルの引き出しまで確認したが、武器になりそうなものは何ひとつ見つからなかった。
窓もない。逃げ道になりそうな場所もない。
「……最悪ね」
彼女はドレスの裾をつまみ、忌々しげに舌打ちした。
美しいことは認める。仕立てもいい。身体のラインに沿ったマーメードラインは、彼女のスタイルを際立たせていた。
けれど、今の状況では邪魔でしかない。
こんな裾の長いドレスで、まともに動けるはずがなかった。
「誰の趣味か知らないけれど……」
裾を両手でつかむ。
次の瞬間、びりっ、と乾いた音が部屋に響いた。
純白の布地が裂け、彼女の手元に細長い布が残る。
さらに膝下まで裾を切り裂くように破り、動きを妨げない長さまで整えた。マーメードラインのドレスには、太ももがあらわになるほど深いスリットが生まれていた。
上品な花嫁姿は、わずかな手直しによって、どこか危うい美しさを帯びた姿へと変わっていた。
彼女は足を動かして確かめる。
先ほどよりも、ずっと動きやすい。
「……これなら、何とかなるわね」
個性は使えない。
武器もない。
それでも、心まで差し出すつもりはなかった。