第9章 林間合宿
今でもこの曲を聴くと、あの頃の温かな時間が、ふっと胸の奥に蘇る。
けれど、今は懐かしさに浸るよりも、目の前のクラスメイトたちに応える番だった。
イントロが流れ始める。
軽快で、弾むようなリズム。
車内のざわめきが、少しずつ小さくなっていった。
おもちはマイクを両手で持ち、一度だけ深く息を吸った。
そして、歌い始めた。
その瞬間
車内の空気が、変わった。
「…………」
誰もが、思わず口を閉じた。
彼女の声は、想像していたよりもずっと柔らかかった。
普段の落ち着いた話し声より少し高く、澄んでいて、耳にすっと馴染む。それでいて、曲の弾むようなリズムに合わせて、声が楽しそうに跳ねる。
技巧を見せつけるような歌い方ではない。
ただ、心からこの曲を楽しんでいる。
そんな歌声だった。
表情も、普段とは少し違っていた。
歌い始めこそ、ほんのわずかに緊張していたものの、メロディーが進むにつれて自然と頬が緩んでいく。リズムに合わせて身体を揺らし、時折、恥ずかしそうに目を細めながらも、一生懸命に歌っている。
いつもの、何を考えているのか分からないような涼やかな微笑みではない。
もっと無邪気で、素直で、楽しそうな笑顔。
それが、彼女の歌声と一緒に車内へ広がっていった。
「……やば」
上鳴が、ぽつりと呟いた。
「何あれ……めっちゃいいんだけど」
隣の切島や耳郎も、すっかり聴き入っていた。
「声、すげぇかわいい……!」
「うん……なんだか、ずっと聴いていたくなるね」
緑谷も感心したように頷いていたが、画面に流れる曲の歌詞に気付くと、途端に頬を赤くした。
(ま、待って……ものすごい”好き”とか、き、”キス”とか出てくるじゃん……!)
好きな人への想いを真っ直ぐにぶつけ、恋人との距離の近さを想像させる言葉。聴いているだけで、誰かを好きになった時の気持ちが浮かんでくるような曲だ。
それを、目の前の彼女が歌っている。
普段は大人びていて、どこか近寄りがたいほど綺麗な女性。
そんな彼女が、少し恥ずかしそうにしながらも、恋する気持ちを歌に乗せている。
緑谷は顔を赤くしたまま、視線を逸らしかけた。
(……いや、でも、歌ってるだけだし!曲の表現として聴けばいいんだよね!?)
そう自分に言い聞かせるものの、どうにも落ち着かない。