第6章 保須市襲撃事件
保須市の路地裏。
人通りのない暗がりに、おもちは座り込んでいた。
背中を冷たい壁に預け、荒い呼吸を繰り返す。
「……っ、はぁ……」
頭痛は一向に治まらなかった。視界はぼやけ、耳鳴りも続いている。身体の内側では、心臓がいつも以上に激しく鼓動していた。
このままでは、帰ることすら難しい。
彼女は震える手を懐に差し入れた。
取り出したのは、見慣れた一本の注射器。
公安から支給されている、個性使用後の身体機能を補助するための薬剤だった。
体育祭の際にも使用したことがある。
ただし、今回手にしたものは、あのときとは違った。
濃度は、約三倍。
精神領域への直接干渉という、負荷の大きい個性使用を想定して用意されたものだった。
本来なら、安易に使用するべきではない。
それでも、今の彼女には選択肢がなかった。
「……仕方ない、か」
小さく呟き、慣れた手つきで大腿部に投与する。
数秒後。
薬剤が身体になじんでいくにつれ、張り詰めていた意識が、ほんのわずかに浮上した。
「……っ、はぁ……」
呼吸は、まだ苦しい。
頭痛も消えていない。
それでも、先ほどまで途切れそうだった意識が、どうにか繋ぎ止められている。
彼女は注射器を手から離し、壁に背中を預け直した。
そして、ゆっくりと空を仰ぐ。
路地の隙間から見える夜空は、ひどく遠かった。
「……星、見えないな」
場違いな言葉が、唇からこぼれる。
いつもなら、こんな場所で空を見上げたりしない。
帰還経路を確認し、任務の報告内容を整理し、次の行動を考える。
それが当たり前だった。
なのに今は、何も考えたくなかった。
ただ、少しだけ休みたい。
彼女は手首に指先を当てた。
一つ、二つ、三つ。
いつもより、明らかに脈拍が上がっていた。
「……鎮まって」
その声には、いつもの張りがない。