第10章 狂い雨
皐月さんが部屋を出て行ったあと、私は少しだけ重くなった身体を起こし、着物の裾をきゅっと結び直した。
五条先生が買ってくれた可愛いお洋服や寝巻きを、大切にクローゼットへと仕舞い込む。
高専の裏の山に流れる、霊脈(れいみゃく)の状態を、少しだけ確かめに行こうかな……
『風伝い』による遠隔での梅雨の顕現を成功させるためには、この土地の底を流れる大地の莫大なエネルギーの通り道——『霊脈』の状態を、確認しておく必要があった。普段の顕現でも、力を借りるのだ。風伝いともなれば、今まで以上にエネルギーを使うだろう。
いつもなら一人で出歩くなど許されていない。皐月さんは四季庁に行ってしまった。五条先生を頼ろうかとも思ったけれど、これ以上自分の都合で先生やみんなに迷惑をかけたくない、危険に晒したくないという思いが、私を突き動かしていた。
私は誰にも見つからないように足音を忍ばせ、1人静かに高専の部屋を抜け出して、夕暮れの影が落ちる裏山へと向かった。
鬱蒼とした緑の木々をかき分け、霊脈の気配が一番強く湧き上がっている、開けた崖のほとりへと辿り着く。涼しい山の風が吹き抜け、私はホッと小さく息を吐き出した。
「おや、こんなところで一人かい? 迷子かな」
不意に、背後の空間がぐにゃりと歪むような気配と共に、酷く耳に心地よい、だけどどこか底の知れない男の声が響いた。
『っ、誰……!?』
驚いて振り返ると、そこには数体の不気味な黒い影を従えるようにして、どこか怪しげで、袈裟を身に纏った、長い黒髪の男が静かに佇んでいた。
すっと細められた切れ長の瞳。その男は、息を呑んで身構える私をじっと見つめると、酷くあたたかくて、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「やあ、久しぶり。……ずいぶん大きくなったね、雫」
名前を呼ばれ、私はパチパチと瞬きを繰り返した。
けれど、記憶の引き出しをどれだけ探っても、目の前にいるこの男の顔が、思い出せない。
『あの……失礼ですが、どちら様、でしょうか……?』
「おや、忘れてしまったのかい? 寂しいな」
男はクスッと、本当に困ったように眉を下げて微笑む。
「夏油傑(げとう すぐる)だよ。君がまだ、すごく幼い頃に、会った」
夏油、傑——。