第8章 谷雨
僕は彼女の部屋のドアを静かに開けると、暗い部屋の中へと足を踏み入れ、彼女をベッドへとそっと横たわらせた。
柔らかい布団が彼女の身体を包み込みこんだ。目が覚めそうになってか、彼女が瞼をピクピクと動かす。
「ん、まだ起きなくていいよ」
耳元で、自分でも驚くほど低くて、甘い声が彼女の鼓膜を震わせた。
泥のように深い眠りに落ちている彼女は、僕の腕から離れても、小さな吐息を漏らすだけで完全に目を覚ます気配は全くない。
ふと彼女の手元に目をやると、その小さな両手は、胸の前で何かをギュッと、それこそ何があっても離さないというように大切そうに握りしめていた。
……あぁ、これ、ずっと持っててくれたんだ
——それは、昼間に僕が彼女の頭の上に載せてあげた、シロツメクサの花冠だった。
子どもたちに他の花冠を全部あげてしまっても、これだけは「特別な宝物」だと言わんばかりに、帰りの車内でも、僕の腕の中にいる間も、健気にずっと守り続けていたのだ。
少し萎れて、雨の雫はもう乾いてしまっているけれど、そこには間違いなく、今日という一日の温かい記憶が宿っていた。
僕はベッドの脇にそっと腰掛けると、彼女の強張った指先を一本ずつ優しく解き、その大切な花冠を僕の手で受け取った。そして、いつでも彼女の目に入るように、枕元のすぐ近くにあるサイドテーブルの上へと、音を立てずにそっと乗せてあげる。
小さな身体を冷やしてしまわないように、足元に畳まれていた柔らかな毛布を引き上げ、彼女の首元までふんわりと優しくかけてあげた。
『ん……っ……』
毛布のぬくもりに包まれた雫は、心地よさそうに小さく身じろぎをして、僕の方へと無意識に顔を向けてくる。
規則正しい小さな寝息。月光に照らされたその横顔は、とても美しく、昨夜の、今にも泣き出しそうだったあの時の顔とは、まるで別人のように穏やかで、安心しきった表情をしていた。