第8章 谷雨
僕は少しだけ微笑むと、衣服を擦れさせながら、彼女の背中と膝の裏にそっと腕を回した。眠っている彼女を、このまま僕の腕で抱き上げて部屋まで運ぼう——そうした、まさにその瞬間だった。
バタン、と後部座席のドアが勢いよく開く音が響いた。
「はいはーい、憂太はそこまで。雫を運ぶのは先生の役目ね」
「え……っ、五条先生?」
気づけば、後部座席のドアを開け放った五条先生が、僕の手から彼女を奪い去るようにして、その大きな腕の中に滑り込ませていたのだ。
「先生、僕が運ぶので大丈夫です。雫ちゃんは疲れているみたいですし……」
自分の声から、いつもの柔和な響きが消えていくのが分かった。
雫ちゃんを僕の腕の中に引き留めたくて、彼女の着物の袖をきゅっと微かに握る手に力を込めた。
けれど、五条先生はそれを、大人の、圧倒的な余裕で容易く組み伏せてしまう。先生の長い腕が、僕の手を優しく、だけど拒絶を許さない力強さで押し退け、雫ちゃんを自分の胸へと完全に引き寄せた。
「ダメだよ、憂太。君も長時間の移動と、昨日の訓練で疲れてるでしょ? 生徒に無理をさせるわけにはいかないからね。……それに、こういうのは “大人” の特権だからさ」
目隠しの奥にある五条先生の視線と、僕の視線が、雫ちゃんの頭上でバチバチと火花を散らすように交錯する。
車外で待っていた真希さんやパンダくん、狗巻くんが、五条先生のそのあからさまに感情を剥き出しにした行動に、少し目を見開いてポカンと驚いているのが分かった。あの五条先生が、これほど剥き出しの独占欲を露わにするなんて思ってもみなかったのだろう。
「……わかりました。お言葉に甘えます、五条先生」
僕は悔しさに微かに奥歯を噛み締めながら、引くしかなかった。五条先生の腕にすっぽりと収まり、お姫様抱っこで行ってしまう彼女の後ろ姿を、僕はただ、拳を固く握りしめて見つめることしかできなかった。