第1章 『音会う』
「そんな前から聞いてたんですか?」
「聞こえていた、と言った方が正確だな」
男は理工学部の校舎を振り返った。
「僕の研究室まで音が届く」
──血の気が引いた。
「す、すみません!」
「だから、騒音だと言っているわけじゃない」
「でも研究の邪魔ですよね……」
「興味のない音ならそうだったかもしれない」
さらりと言って、彼はまたこちらを見る。
──興味のない音なら。
妙な言い方だった。
「君の演奏には、いくつか規則性がある」
「規則性……?」
「同じ曲を演奏していても、後半になるにつれてテンポが僅かに上がる。特に難易度の高いパッセージを越えた直後にその傾向が顕著だ。それから、納得できない箇所を繰り返すとき、三回目までは技術的な修正をしているが、それ以降はほとんど変化がない」
「…………」
何を言われているのかは分かる。
分かるからこそ、返事ができなかった。
「それでも繰り返す。今日もそうだ」
男は言った。
「つまり、君が修正しようとしているのは技術ではない」
──春の風が吹いた。
手に持った楽譜の端が揺れる。
「……じゃあ、何なんですか」
気づけば、そう尋ねていた。
男は少しだけ目を細めた。
「それが分からないから興味深い」
「はい?」
「演奏技術に問題がないにもかかわらず、演奏者本人だけが明確な違和感を認識している。その原因が音そのものに存在するのか、演奏者の心理状態に起因するのか。検証する余地はある」
「検証って……」
「実に興味深い」
──変な人。
それが、彼に対する最初の印象だった。
人の演奏を勝手に十七回も数えて、
曜日と時間まで把握して。
挙げ句の果てには、人の悩みを研究対象のように扱っている。
普通なら、もう少し別の言い方があるだろう。
けれど──、
「……でも」
私はフルートへ視線を落とした。
「確かに、そうかもしれません」
「何がだ?」
「直したいのは、音じゃないのかも」