第43章 【第三十八話】呼べなかった名前
「成り行きだ」
クロスは煙を吐き、それきり興味を失ったように視線を外す。
「相変わらず、謎が多い男だな」
元帥は小さく笑って、それ以上は問わなかった。
積もる話は後――その言葉に、誰より多くの話が積もっているのはこの男だった。
ティエドール元帥を先頭に、江戸で戦っていた面々が次々と方舟へ乗り込んでくる。
賑やかさが、一段増した。
*
アレンとリナリー、そしてクロスがアジア支部へ降りていく。
その背を見送って、方舟の喧騒がわずかに引いた頃だった。
「ラビ」
低い声に振り返る。
ブックマンが、いつもの半眼でこちらを見ていた。
「方舟で何があった」
来た、とラビは思った。
記録者としての報告。
当然の要求だった。
むしろ、遅いくらいだ。
「……ああ」
ラビは、方舟で起きた全てを差し出した。
神田が、ティエドール元帥を狙っていたノアと相対したこと。
クロウリーが、単身でジャスデビというノアと相対したこと。
アレンが、ピアノで方舟を掌握し、崩壊を巻き戻したこと。
そして――湖畔で遭遇した、ヴェインという白い髪の男。
セトラの生き残りを名乗ったその男が、方舟でティファを名指しし、二人だけの戦いへ引きずり込んだこと。
ティファがそれを引き受け、皆を先へ逃がしたこと。
その代償に、喉を焼き、声を出せなくなったこと。
ノアは、一族の記録に幾度も刻まれてきた血族だ。
だが、セトラを名乗る男は――少なくとも、オレの知る記録にはいない。
だから、そこだけは細部まで差し出した。
淀みなく。
一つも逸らさず。
どの事実も、平坦に。
――昔なら、こうはいかなかった。
あの夜、「セトラの娘への情を捨てろ」と言われた時は、拳を握ることしかできなかった。