第1章 梨が落ちる
午後九時。
玄関の扉が開く。
このマンションはオートロックで、バイオメトリクス錠を採用している。
この部屋の鍵を外から開けられるのは私と、修さんしかいない。
つまり…………
「おかえりなさい、修さんっ」
私は駆け出して、修さんの厚い胸に飛び込んだ。
暗いラベンダーグレーのスーツから香った、冷たい夜の空気の匂いと、海外のチョコレート菓子のような甘い煙草の残り香を、肺いっぱいに吸い込む。
ああ、修さんの腕の中だなあって、安心する。
「飛び付くな。危ないだろう…………」
呆れつつ、修さんは腕一本で私を抱き留めてくれた。
「ごめんなさい、でも…………」
謝った私は背伸びをして、修さんの唇の端に口付ける。
煙草を吸ったばかりなのか、Hi-liteの香りが唇に伝わった。
「まったく…………」
ため息を吐いた修さんが、私の唇を塞ぐ。
少しカサ付いた粘膜が私のあわいを押し開き、厚い舌が割り込んでくる。
修さんのキスは煙草の味がして、少しからい。
舌と喉がひりついて、胸がきゅんと苦しくなる。
よろめきかけた私は、必死に修さんの首筋に腕を回した。
修さんはあいかわらず、腕一本で私を支えている。
「はあっ…………」
長く少し乱暴な口付けから解放された私は、力なく修さんの胸にしなだれこんだ。
修さんの無骨なゆび先が私の髪を一束掬い上げて、掻き遣る。
「“でも”、寂しかったのか?」
「ん…………」
堅い胸に頬ずる私のあたまを、修さんはよしよしと撫でている。
「……――俺もだ」
囁くような告白の後、また唇が重なった。