第20章 王女のアリア
楽団員からの襲撃という騒ぎは、皮肉にもイルミの気分を少しだけ晴らしていた。
部屋へ戻ると、見飽きた景色がいつも通り迎えた。
譜面、机、ピアノ。
そこに広がるのは、途中で放り出した現実だった。
「……」
さっきまでの騒ぎで少しだけ軽くなっていた頭が、また重く沈んでいく。
イルミは小さく息を吐き、机の前へ腰を下ろした。
取り組んでいるのは、このオペラ最大の山場。王女が決して叶わぬ恋を胸に抱えその想いを歌へ昇華させる、最後のアリアだった。
この一曲が、物語の核だ。
どれほど優れた序曲を書こうと、どれほど壮大な合唱を書こうと、この歌が人の心を射抜かなければ意味がない。
静かな部屋は、羽ペンが紙を擦る音だけが響く。さらさらと音符が並び、旋律は形になっていく。
やがて、イルミはペンを置いた。
完成した譜面を黙って見つめる。
「……違うな」
構成は悪くない。
転調も自然だ。
技巧にも問題はない。
それでも、胸が動かなかった。
歌として成立しているだけで、このオペラを締めくくるには弱い。
何かが足りないと、イルミは譜面へ何本も線を書き込み直していく。
一小節。二小節。気づけば一ページが真っ黒になっていた。
それでも違う。
苛立ちとも焦りともつかない息が漏れる。
「……はあ」
しばらく譜面を見つめた末、イルミは机から原稿を全て薙ぎ払った。
白紙を広げ最初から書き直す。
また一から羽ペンを走らせる。
何度も書きかけては捨て、それを繰り返しているうちに、床には失敗した譜面が積み重なっていった。
「……いまいちだ」
掠れた声だけが部屋へ落ちる。
最後のアリアだけが、どうしても書けない。
頭の奥がじわりと重くなり額を押さえる。ようやく治まっていた頭痛が、また鈍く脈を打ち始めた。
頭の中に鳴っていた音符たちまで濁り始める。
「……」
思考が霞む。
ペンを握る指から力が抜けた。
そのまま机へ腕を置き、ゆっくりと額を預ける。
視界が暗く沈んでいった。