第19章 束の間の休符
ヴェルハイト邸、控え室。
「息を吸いなさい」
キキョウの声が背後から降ってくる。
「はい」
ニナは小さく息を吸った。
次の瞬間、背中の編み上げ紐がぐっと引かれる。
「っ……!」
思わず肩が震えた。
鏡の前には、淡い生成り色のドレスを身に纏った自分が映っている。その上から深い青のビスチェが重ねられていた。
「まだ余裕がありますね」
「そ、そうですか……」
「姿勢を正しなさい」
再び紐が締め上げられる。
ニナは小さく呻いた。
「くっ、苦しいです……」
「婚約の儀です」
キキョウは容赦なく言った。
「多少の苦しさで音を上げていては務まりません」
そう言われると反論できない。
鏡の中の自分は、普段より少しだけ大人びて見えた。
不思議な気持ちだった。
本当に自分なのだろうか。
ただの養女だった自分が、公爵家当主代理ライネル=ヴェルハイトとの婚約の儀に出席している。
未だに現実感が薄い。
ふと視線が落ちる。
胸元にはレネイスを忍ばせている。
きっと今も青い石は、ニナの胸の内で静かに揺れている。
胸の奥に触れる微かな軋みをあやすように。
イルミは来ない。
来られない。
分かっている。
分かっているのに、ほんの少しだけ残念だった。
「何を考えているのです」
キキョウの声に顔を上げる。
「いえ……」
「背筋」
「はい」
ニナは慌てて姿勢を正した。
キキョウは鏡越しに娘を見る。
しばらく無言だった。
やがて小さく頷く。
「よろしい」
その一言に、ニナは少しだけ目を見開いた。
褒められたのだろうか。それとも単なる確認だろうか。キキョウの表情からは分からない。