第3章 名前をもらえない距離
知らない人間に、こんなこと――
「……好きにしろ」
あっさりと、返された。
「……え」
「ただし、面倒は見る気はない」
ぶっきらぼうな言葉。
でも、拒まれなかった。
ヒスイは恐る恐る手を伸ばす。
指先が、衣に触れる。その瞬間。
「っ……」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
あたたかい。
知っている温度。
でも、違う。
猫として触れられるのと、
“自分から触れる”のは、こんなにも違う。
(……好き)
溢れそうになる。
言ってしまいそうになる。でも。
「……名前は」
倶利伽羅の声に、思考が止まる。
「名乗れ」
短く、簡潔に。
当然の問い。
ヒスイは一瞬だけ迷って。
「……ヒスイ」
そう、答えた。
初めて自分の名前を“人として”口にした。
「……そうか」
それだけだった。
特別な反応はない。
ただ、受け取られただけ。
(……それでも、いい)
今はまだ。
ここにいられるだけで、いい。
ヒスイは、小さく笑った。
その笑顔が、ほんの少しだけ――
無理をしていることに、本人だけが気づいていなかった。