第1章 嘘
「……ねぇ、ちょっといい?」
洗濯を干していた私の背中にかかる声。
呼ばれて振り向いたとき、最初は誰だか分からなかった。
毛先にいくにつれて翡翠色に染まる長い髪。霞のように淡い瞳。年若いのに、どこか遠くを見ている人。
あの日布団に横たわっていた少年とは見違えるほど洗練された姿だった。
「……時透、様?」
そう呼ぶと、彼は少しだけ首を傾げた。考えるみたいに。
「あれ……君、僕とどこかで会った?」
まっすぐに見つめられて、言葉に詰まる。覚えていないはずだと思っていたのに。それでも私は、小さく首を振った。
「……いいえ。でもお噂は常々聞いております。今日はしのぶ様にご用ですか?」
きっとあの夜のことは彼にとって思い出したくないはずだから。私は、あの日の記憶からいなくならなければいけない。
彼はしばらく黙っていた。
「ちょっと前に受けた傷を診たいんだって。胡蝶さんは?」
「診察室にいらっしゃいます」
「そう」
彼が方向を変えようとした、そのときだった。
ふいに風が吹いた。
さっきまで穏やかだった風が、急に強くなる。庭に干していた洗濯物が大きくはためいた。
「あっ……」
ぐらりと嫌な音がした。濡れた布の重みと風に煽られて、物干し竿が傾く。
私は慌てて手を伸ばした。けれど、間に合わない。
そう思った瞬間、影が目の前を横切った。
倒れかけた竿を、腕が軽く受け止める。驚くほどあっさりと。
目と鼻の先に時透様の顔。端正なお顔立ちから、幼さなさは消えていた。
「危ないよ」
「ありがとう……ございます」
時が止まったようだった。綺麗な瞳から目が離せない。
体勢を崩しそうになった私の腰をしっかりと支えてくれている手は、おどろくほど逞しくなっていた。
「ねぇ、やっぱり君を知ってる気がするんだけど」
時透様の言葉に一気に鼓動が早くなった。庭の草花を風が揺らす音に負けないくらい大きな音で響く鼓動は、きっと時透様にも伝わってしまっている。
「い、いいえ。それは気のせいです」
吐息がかかるような至近距離で問われた問いに、私はまた嘘をついた。