第3章 風
空気が澱んだような湿気の多い夜だった。足を踏み入れた山には、風ひとつなく、重い空気が居座っていた。
そんな中、私は斬った。仲間を──
温かい血が、指を伝って落ちていく、その感触だけが、今も手に残っている。
こんなはずじゃなかった。
あの時、直前まで感じていた鬼の気配がふっと消え、張り詰める糸を手繰り寄せるように気配を探った。
不自然な静けさ。耳鳴りみたいな音が、奥で鳴り始めた。
確かめるように進めていた足を止めた瞬間、空気が歪み、視界が揺れる。景色が滲んで輪郭がぼやけた。
おかしいと思ったのに、その違和感を見過ごしてしまった。
代わりに、はっきりと鬼が見えた。
斬らなければ。近くには仲間がいたはずだ。やらなければ、やられてしまう。
『守らなければ』
そう思った。けれど──
「やめろ、カヲル!!」
声が響く。聞こえている。誰の声かも分かる。でも、それよりも目の前の鬼の方が、ずっとはっきりしていた。
腕が、勝手に動く。
風の呼吸が整い、踏み込む。
斬る。
確かな手応え。
なのに、軽い。鬼特有の忌々しい硬さがない。
耳をつんざくような断末魔。
……おかしい。
その違和感が、遅れて追いつく。
「……え?」
聞こえたのは、鬼の声じゃなかった。視界が戻り、そこにいたのは──
事切れた仲間だった。
血を流して、崩れ落ちていく。
「……ちが……」
違う……! そんなはずない。
だってさっきまで、鬼が──
思考が追いつかないまま。また、空気が歪んだ。今度は、はっきり分かった。
これは、鬼の血鬼術だ。私はまんまとそれにやられて仲間を斬ってしまった。
体の奥から押し寄せる震えで、日輪刀を握っていることができなかった。
蒸し暑いはずなのに、身体の体温が無くなっていく。視界が歪み、立っていられなかった。
そんな私の横を風が駆け抜けた。
兄弟子は、血鬼術をかけた鬼を、目にも止まらぬ速さで斬った。
まるでそれは別の世界で起きているような感覚で、私は切り離された場所からそれを見ているようだった。
手にはしっかりと血の感触が残っていると言うのに。