第2章 声
「だからここに来ていただきました。今は蝶屋敷で医療の手伝いをしています。傷ついた人の手当てをすることで、ようやくここに居場所を見つけたようです」
傷ついた人。その言葉に、さっきの光景が重なる。物干し竿を掴んだ瞬間の、あの距離。触れた腰の細さ。
そして、指先に伝わった心臓の鼓動。あんな顔をする人が。
仲間を斬った? うまく結びつかない。
「彼女は……優しい子です。人の痛みを自分のものとしてしまうほど優しい」
胡蝶さんはそう言って、また筆を取った。
紙の上を走る筆の音だけが、静かな部屋に響く。
「……ねぇ、胡蝶さん」
「はい?」
顔を上げずに返事が返る。
「その人」
少し言葉を探してから、続けた。
「名前は?」
胡蝶さんの筆が、ぴたりと止まった。そしてゆっくりと顔を上げる。紫の瞳が、まっすぐ僕を見た。
「あら」
小さく笑う。
「気になりますか?」
どう答えればいいのか分からない。でも、嘘をついても仕方ない。
「……うん」
胡蝶さんは少しだけ考えるように首を傾げた。それから、くすりと笑う。
「それなら」
筆を置いて体ごと、僕の方を向いた。
「本人に聞いてみてはいかがですか?」
教えてはくれなかった。
「時透君が他人に興味を持つ。これはとても良い傾向です。なので、ぜひ! ご自分でお訊きになってみてください」
胡蝶さんは嬉しそうに笑ったまま、また机に向かってしまった。
「じゃあそうしてみるよ」
ただ名前を訊くだけなのに。やけに胸がざわついた。
窓の外を見ると、さっきまで白い洗濯物が揺れていた庭はもう静かだった。
誰の姿もない。
「……もう戻ったのか」
まぁいいか、と思った。どうせまた来ることになる場所だ。そのときに訊けばいい。それだけのことだ。
でも……
それから何度か蝶屋敷を訪れても、姿は見つからなかった。
任務帰りに寄った日。庭を見ても、洗濯物は別の人が干していた。
薬を受け取りに来た日。廊下を歩いても、それらしい人影はない。
もう一度庭に行ってみる。風が吹いて、白い布が揺れる。その光景はあの日と変わらないのに、そこにいるのは知らない顔ばかりだった。