第8章 孤高の剣士
「……ええ。まだ案内してもらってません。浅草の観音様も、向島の桜も……まだ、一緒に見てないじゃないですか」
私は彼の痩せた手を握りしめました。
その手は驚くほど熱く、高熱に浮かされているのが分かります。
仁先生は、私の鞄の中に大切に保管されていた「ペニシリン」の瓶を見つめていました。
労咳そのものは治せなくても、体力を奪っている二次的な炎症を抑えることができれば、数ヶ月、あるいは数年の命を繋ぐことができるかもしれない。
けれど、それは歴史の予定調和を大きく乱す「選択」でもありました。
「……先生」
私が先生を見上げると、仁先生は静かに頷きました。
「桜子さん。……歴史がどう動こうと、目の前で『約束』を果たそうとしている患者を放っておくことは、私にはできません。……これが私の、医者としての選択です」
仁先生は、注射器を手に取りました。
かつては人を斬るための腕だった沖田さんの細い腕に、未来の知恵が注入されていきます。
「……ふふ。桜子さん。なんだか、腕がじわっと温かいですよ。……これ、未来のまじないですか?」
「おまじないじゃないですよ。……沖田さんの『生きたい』っていう力をお手伝いする、ただの薬です」
窓の外では、江戸の夏の日差しが木々の緑を鮮やかに照らしていました。
歴史は、沖田総司をここで退場させようとしていたのかもしれません。
けれど、今この部屋にあるのは、運命に抗う一人の少年の純粋な願いと、それを支えようとする二人の未来人の意志でした。
「桜子さん……。約束、忘れてませんからね。……必ず、元気になって、歩きましょうね」
沖田さんは、薬の作用か、安心したのか、そのまま静かな眠りに落ちていきました。
私は彼の寝顔を見つめながら、どうかこのまま、歴史の針が彼を追い越していってほしいと、強く、強く願っていました。