第8章 孤高の剣士
「桜子さん!」
仁先生が、倒れそうになった私の肩を強く掴みました。先生の指先も、微かに震えています。
「……先生、行かなきゃ。今すぐ京へ行かないと、沖田さんが……!」
「落ち着きなさい、桜子さん! 今、私たちが江戸を離れても、京に着くまでに何日かかると思っているんですか。それに、今の京は戦場です。新選組も長州も、極限の状態にある」
「でも……!」
「……分かっています」
仁先生は、棚の奥にある小さな木箱を見つめました。そこには、先生がこの時代で心血を注いで作り上げ、改良を重ねてきた「ペニシリン」の原末が保管されていました。
労咳には効かない。それは、医学の常識です。
けれど、衰弱した体に起きる二次感染や肺炎を防ぐことなら、あるいは……。
「恭太郎さん。……新選組の近藤殿、あるいは土方殿に繋いでいただくことは可能ですか」
「先生、まさか……」
「医者として、放ってはおけません。桜子さんが彼にスープを届けた時から、私たちの戦いは始まっていたのですから」
窓の外では、蝉の声がさらに激しく降り注いでいました。
楽しい日常は、脆くも崩れ去りました。
私は、震える手で救急セットを握りしめました。歴史の針が進み、彼を連れ去ろうとしている。
けれど、あの雨の夜、私の手を握り返してくれた沖田さんの「生きたい」という微かな力を、私はまだ諦めることができませんでした。