第5章 自立
第32話:月夜の対峙
京の夜風が、旅籠の古い建具をガタガタと揺らしていた。
軍鶏鍋の余韻が残る部屋に、不意に階下からの足音が響く。それは龍馬さんの軽やかな歩みとも、高杉さんの焦燥を含んだ足取りとも違う、どこか迷いと決意が混ざり合った、重く、確かな響きだった。
「……来たぜよ」
龍馬さんが呟き、箸を置いた。
障子に、二つの影が映し出される。一つは長身の侍、そしてもう一つは、私にとってこの世界で唯一の、そして最も遠い存在。
「…… 桜子さん」
その声が聞こえた瞬間、私の背筋が震えた。
仁先生だ。
引き戸が静かに開き、月明かりを背負った先生が、恭太郎さんと共に立っていた。先生の着物は泥に汚れ、その瞳には、寝る間も惜しんで江戸から追いかけてきた者の壮絶な疲労と、深い後悔が滲んでいた。
「先生……」
「……追ってきてしまいました。」
駆け寄ろうとする先生。だが、私は立ち上がらなかった。
高杉さんの横に、一人の「対等な人間」として座り続けた。
「暢夫さん、こちらが噂の南方先生ぜよ」
龍馬さんが紹介すると、高杉さんは三味線を小脇に抱え、不敵な笑みを浮かべて先生を見据えた。
「ほう……。お前が、この娘の『籠の番人』か。なるほど、道理を絵に描いたようなツラをしてやがる」
「……高杉晋作、殿……ですね」
仁先生は驚きを隠せなかった。まさか孫娘が、歴史を動かす長州の異端児と共にいるとは。