第4章 時代を駆ける者
第二十六話:桜子の家出
夜明け前の橘家は、しんと静まり返っていた。
私は、昨夜から一睡もできないまま、小さな巾着に必要なものだけを詰め込んだ。現代から持ってきた鎮痛薬、小型ライト、そして……懐かしんでしまうからとしまっていた菓子。
(……ごめんなさい、おじいちゃん。でも、やっぱり私、納得できないよ)
仁先生が歴史を守ろうとしているのも、私の身を案じているのも分かっている。
けれど、「未練を与えるな」という言葉だけは、どうしても受け入れられなかった。死にゆく人に「生きたい」と願うことが、どうして罪になるの?
「恭太郎さん…庇っていただいたのにすみません…」
私は音を立てないように勝手口から外へ出た。
湿った朝の空気が、泣き腫らした目に冷たく染みる。
あてもなく江戸の町を歩きながら、私は自分の無力さを噛み締めていた。
現代なら、家出してもコンビニがある。スマホで友達に連絡もできる。でも、ここには何もない。ただ、どこまでも続く瓦屋根と、不気味なほど静かな夜明けがあるだけだ。
(……帰りたいな。……お母さんのご飯が食べたい。おじいちゃんとテレビを見ながらたわいもない話がしたい……)
堪えていた涙が、また一粒こぼれた。
私は、自分がこの時代にとって「異物」でしかないことを、改めて突きつけられたような気がした。