第4章 時代を駆ける者
第二十五話:仁の疑惑
橘家の玄関に辿り着いたとき、夜風はすっかり冷たくなっていた。
「……ありがとうございました、恭太郎さん」
私が小声でお礼を言うと、恭太郎さんは短く頷き、いつもの生真面目な顔を作って戸を開けた。
「ただいま戻りました」
奥から出てきたのは、咲さん……ではなく、仁先生だった。
先生は行灯も持たず、暗がりに静かに佇んでいた。その姿に、私は反射的に肩を強張らせる。
「……お帰りなさい。少し、遅かったですね」
仁先生の声は、凪いだ海のように穏やかだった。けれど、その瞳は射抜くような鋭さを秘めている。
「……すみません。少し、遠くまで足を伸ばしてしまって」
私は嘘をつきながら、そそくさと居間へ向かおうとした。しかし、先生の横を通り過ぎる瞬間、ピタリと足が止まった。
「桜子さん。……何か、料理をしましたか?」
「えっ……?」
「君の着物から、生姜と出汁の匂いがします。……橘家の台所からは、今夜そんな匂いはしませんでした。咲さんは、別のおかずを作っていましたから」
心臓が跳ね上がった。
現代の消臭スプレーなんてないこの時代、染み付いた料理の匂いは、あまりに雄弁な証拠だった。仁先生は外科医だ。わずかな異変も見逃さない、その観察眼を甘く見ていた。
「それに、恭太郎殿」
仁先生の矛先が、私の後ろに立つ恭太郎さんに向く。
「…… 桜子さんが一人で歩くのをあれほど危惧していた貴方が、これほど遅い帰宅を黙認し、さらに彼女を庇うような目つきをしている。……一体、どこへ行っていたのですか」
恭太郎さんは沈黙した。武士として嘘はつけず、かといって桜子との約束を破ることもできず、苦渋の表情で視線を落とす。
「……南方先生。それは……」