第3章 修行
「……龍馬さん、明かりを! 部屋中の行灯を集めてください! 咲さんも桜子さんもいない、あなたが助手だ!」
私は持ってきた鞄を開けた。
だが、中身を確認して息が止まった。
(……縫合糸が、足りない……)
先日の少年の治療で、現代から持ってきた高品質な糸を使い切っていたのだ。
手元にあるのは、まだ消毒も済んでいない絹糸。これでは感染症を防げない。
その時、脳裏に桜子の顔が浮かんだ。
彼女の鞄の中にあった、あの予備の縫合セット。
「……先生、どうした!?」
「……いや、やるしかない。龍馬さん、傷口を押さえてください!」
私は血に染まったメスを握り直した。
血管を一つずつ縛り、裂けた腸を繋ぎ合わせる。
だが、縫うたびに、絹糸が肉を切り裂いていく感覚がある。現代のナイロン糸なら、もっと滑らかに、もっと確実に繋げられるのに。
(桜子……君が、君の持っているあの『未来』が、今ここにあれば……)
私は、初めて恐怖した。
自分一人の技術では、この時代の巨大な「死」という渦に抗いきれないことを。
そして、私を「おじいちゃん」と呼ぶあの少女が、実は私の医学をこの時代で完成させるための、最後の欠片(ピース)なのではないかという予感に。
三時間に及ぶ死闘の末、西郷の脈はかろうじて安定した。
だが、私の着物は、返り血でどす黒く染まり、精神はすり減ってボロボロだった。
屋敷を出た時、夜明け前の冷たい風が吹いた。
私はふらつく足取りで、橘家へと向かった。
そこには、私が守るべき「未来」が、桜子が待っているはずだ。
「…… 桜子さん。……君をこんな世界に巻き込むのか…」
独り言のように漏れたその言葉は、誰に届くこともなく、江戸の闇に吸い込まれていった。