第2章 八百八町
第十二話:兄の迷い、妹の好奇心
橘家の門をくぐった瞬間、私はようやく肺の奥まで空気を吸い込めた気がした。
恭太郎さんの背中を見つめながら歩いたあの三歩の距離は、まるで針のむしろの上を歩いているようだった。
「……ただいま戻りました」
恭太郎さんの低い声に呼応するように、奥からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。
「お帰りなさいませ、兄上。 桜子さんも、無事のお戻りで何よりです」
咲さんが、夕餉の準備をしていたのか、少し袖をまくった姿で現れた。彼女の顔を見た瞬間、私の強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「咲さん……!」
「あら、 桜子さん、お顔が少々赤うございますよ。坂本様の江戸案内は、さぞかし……刺激的だったのでしょうか?」
咲さんがクスクスと悪戯っぽく笑いながら、私と恭太郎さんを交互に見やった。その視線に、恭太郎さんは目に見えて狼狽し、あらぬ方向を向いて咳払いをした。
「……坂本殿は、相変わらずの奔放さであった。 桜子殿を勝先生の元へ置き去りにし、南方先生を連れてどこぞへ消えてしまったのだ」
「まあ、それは坂本様らしい。……それで、兄上。 桜子様を勝先生の元から、ずっと無言でお連れしたのですか?」
「む……っ。余計なことは言わなくてよい」
恭太郎さんはそれだけ言い捨てると、逃げるように自分の部屋へと去っていった。その足取りは、いつになく早かったように思う。
「ふふ、兄上ったら。不器用なのです、あのように見えて」