第2章 八百八町
一方、その数歩前を歩く恭太郎の内面は、 桜子が想像も及ばないほどに乱れていた。
(……弱った。何を話せば良いのだ)
恭太郎は、前を向いたまま、背後の小さな足音に神経を集中させていた。
勝先生から「南方先生の弟子を送り届けてやれ」と言われた時、彼は内心で激しく動揺していた。
(南方先生と同じ……。龍馬さんがそう評したこの娘は、確かにこの江戸の景色に馴染んでいない。なのに、どうしてこれほどまでに……危うく、守ってやらねばと思わせるのだ)
恭太郎にとって、女性とは守るべき家族の象徴である栄や咲、あるいは遠くから眺める存在であり、 桜子のような「正体不明だが、どこか放っておけない存在」との接し方は、武芸の教本には一文字も載っていなかった。
(先ほど、『すみません』と謝らせてしまった。……武士として、客人を気遣わせるとは何たる失態。だが、今さら何を言えばいい? 『だんごは美味かったか』などと聞くのも、軽薄ではないか?)
恭太郎は、あまりの緊張に喉の奥がカラカラに乾いていた。
彼は 桜子を嫌っているどころか、その「異物感」ゆえに目が離せなくなっている自分を、必死に理性で抑え込もうとしていたのだ。
ふと、 桜子が小さな石につまずき、よろめいた。
「あっ……!」
「危ない!」
恭太郎は反射的に振り返り、 桜子の腕を咄嗟に支えた。
触れた袖の向こう側、雪乃の腕は驚くほど細く、そして温かかった。
「……怪我は、ございませぬか」
「は、はい……ありがとうございます。すみません、ぼーっとしてて」
顔を真っ赤にして謝る雪乃。恭太郎もまた、慌てて手を離すと、自身の頬が熱くなるのを感じていた。
「……橘家は、もうすぐです。……足元に、気をつけなされよ」
少しだけ、声が和らいだ気がした。
三歩という距離は変わらないけれど、二人の間を流れる空気は、江戸の夕暮れのように、少しだけ柔らかく色づき始めていた。