第2章 八百八町
第十一話:橘恭太郎
龍馬さんは「急ぎ診てほしい患者がおるがじゃ!」と、嵐のように仁先生を連れ去ってしまった。
一人、江戸の雑踏に取り残されそうになった私を救ったのは、勝先生が「ついでだ」と呼び止めた橘恭太郎さんだった。
「……参りましょうか、 桜子殿」
恭太郎さんは短くそう言うと、前を向いて歩き出した。
私はその後ろ、およそ三歩下がった位置を必死についていく。江戸の作法では、女子が男の人の前を歩くなんて許されないのだろう。
「あの……お忙しいのに、わざわざ迎えに来ていただき、すみません」
勇気を出して背中に声をかけたけれど、返ってきたのは、
「いえ、勝先生の頼みですから」
という、事務的で硬い言葉だけだった。
(……怖い。やっぱり、武士の人って近寄りがたいな)
私は、恭太郎さんの後頭部を見つめながら内心で溜息をついた。
おじいちゃんの話では、恭太郎さんはとても義理堅く、妹の咲さん想いの優しい人だって聞いていたけれど。今の彼は、まるで抜身の刀のような鋭い空気を纏っている。
(私のこと、面倒な女だと思ってるよね。得体の知れない格好で現れて、南方先生に頼まれて居候までさせてくれて……。嫌われてるのかな。それとも、不気味なのかな……)
俯きがちに歩く私の視界に入るのは、恭太郎さんの袴の裾と、土を蹴る草履の音だけ。
もっと気さくに話しかていい現代とは違い。三歩後ろから見るこの「沈黙」が、私には何時間にも感じられた。