第1章 幕末への導標
祖父の言葉に、私は少しだけ胸が痛んだ。
私の家族は、父も母も、兄たちもみんな医者だ。南方家という名は、医学界では特別な意味を持っている。けれど、私は血を見るのが苦手で、おっとりしていると言われる自分の性格が、緊迫した医療の現場に向いているとは到底思えなかった。
「 桜子。お前は医学部を目指さないと聞いた」
祖父の言葉に、私は肩をすくめた。
「……うん。私、みんなみたいに優秀じゃないから。お医者さんになりたいって思えない自分は、この家ではダメなのかなって、時々悩むんだけど」
祖父は私の顔をじっと見つめ、優しく微笑んだ。
「そんな事はない。道は自分で決めるものだ。……だがな、 桜子。救急セットだけは、肌身離さず持ち歩きなさい。それは人を救うためだけじゃない。お前自身の身を守るためでもあるんだ」
「分かってるわ。でもおじいちゃん、そんな心配しなくても、今の日本は平和よ? 江戸時代みたいなことは起きないから」
私は足元に置いた通学鞄に目をやった。中には、祖父が特注で用意させた、コンパクトながらも充実した医療ポーチが入っている。
祖父は小さく、けれど深い慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「そうだといいんだがな……。だが雪乃、運命というものは、いつも背後から忍び寄ってくるものだよ」
その時だった。
窓の外、神田川の上が一瞬、不自然に歪んだように見えた。
「……おじいちゃん?」
「来たか……。修正力か、それとも……」
「えっ?」
突然、激しい耳鳴りが私を襲った。キーンという高い音と共に、視界が白く弾ける。
「 桜子、荷物を離すな!」
私の体は、重力から解き放たれたかのように、後ろ側にある「闇」へと吸い込まれていった。
「おじいちゃん!!」
目を覚ますと、そこは深い霧の中だった。
コンクリートの床ではない。湿った、冷たい土の感触。
私は震える手で通学鞄を抱きしめた。
「嘘……でしょ……?」
霧の向こうから、カサカサと乾いた音が聞こえてくる。
それは、――草履の音だった。
「……おい。そこで何をしておる、おなご」
低い、武骨な声。
私は恐る恐る顔を上げた。そこには、腰に二本の刀を差した、髷(まげ)を結った男が立っていた。
南方 桜子の、長く険しい「あの日」への旅が、今始まった。