第1章 幕末への導標
第一話:祖父の妄言
都内にある大学病院の一室。午後の柔らかな陽光が、白いカーテン越しに室内を照らしている。
窓際で神田川の緩やかな流れをぼんやりと眺めているのは、かつて脳外科の権威として知られた私の祖父、南方仁だ。
「おじいちゃん、本当にここからの景色が好きね」
私が声をかけると、祖父はゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、慈しみと、どこか遠い過去を惜しむような寂しさが混じっている。
「……ああ、 桜子か。じいちゃんは昔、ここから江戸時代に行ってな。まだ医療器具も機械も何もない中で奮闘したことを思い出すんだ」
私は小さく息をついた。
(またこの話……。子供の頃から、おとぎ話みたいに何回も聞いたわ)
「そうだったね。おじいちゃん、ペニシリンに似た薬も作ったんでしょ? 医者なのに科学者みたいなこともしたのね」
冗談めかして言うと、祖父は真剣な眼差しで頷いた。
「ああ、そうだ。あれは一人では到底成し遂げられなかった。緒方先生や、多紀先生……そして、咲さん…あの人達がいたからこそできたことだ。命を救うためなら、石鹸だって、精製水だって、なんだって作ったさ。だが作れないものも沢山あった…」
「だからだっけ?私達に必ず鎮痛薬と救急セットを持たせているものね。持ち歩くのを忘れるとひどく怒られるって、お父さんも言ってたよ」
私はクスクスと笑った。南方家の「家訓」とも言えるこの習慣は、医師の間でも有名だ。父も、叔父も、従兄弟たちも。医者の家系である彼らはそれを「不測の事態への備え」として受け入れているが、どこか迷信じみた祖父の執念にも見えた。
だが、現代の日本で、女子高生が常に高度な止血帯や消毒液、抗生剤入りのポーチを持ち歩いているなんて、友達には口が裂けても言えない。
「もし、お前たちが私と同じ目にあっても……苦労させないためだ」
(まただ。苦労させないためって何?)