第12章 未来への道標
第69話:遥かなる未来、桜の記憶
明治という新しい年号が発布される直前、江戸の町に初夏の強い陽光が降り注いでいました。
橘家の庭で、仁先生の体はもはや、向こう側の景色が完全に見えるほどに透き通っていました。
「……桜子さん、咲さん、恭太郎さん。もう、時間のようです」
仁先生の声は、風の音に混じって消え入りそうでした。桜子は震える手で、実体の失われゆく祖父の腕を掴もうとしましたが、指先は虚空をすり抜けるばかりでした。
「おじいちゃん……行かないで! 私を一人にしないで!」
「……いいえ、桜子さん。君は一人じゃない……君はこの時代に、この『今』に、しっかりと根を張っている。……龍馬さんを救い、恭太郎さんを助け、沖田殿の最期を看取った君の魂は、もうこの時代のものなんだよ」
「先生!まだ教えていただきたい事がたくさんあります。桜子さんも私も…まだ…」
「咲さん。あなたほどの優秀な理解者がいてくださり、私は救われました。私をそして桜子を信じてくれてありがとう」
仁先生は、優しい、本当に慈愛に満ちた表情で皆を見つめました。
「……桜子。お前は私の誇りだ。……南方家の医術を、そして私たちが救った命の灯火を、この時代で絶やさないでくれ。……恭太郎さんと、幸せになりなさい。そして彼と新しい日本をつくりなさい。……それが、私への一番の孝行だ」
「おじいちゃん……!!」
眩い光が、二人を包み込みました。
桜子の髪に刺さった桜の簪が、激しく発光し、時空の裂け目を押し広げていく。
仁先生の姿が、光の粒子となって空へと溶けていきました。
「……ありがとう、桜子。……君が江戸に来てくれて良かった……ここでの事は絶対に忘れない…さようなら」
その声を最後に、仁の気配は完全に消えた。
静まり返った庭に、「先生!!」と言う咲の悲痛な叫びと、桜子の泣き声だけが響いた。