第11章 人間万事塞翁が馬
その時、沈黙を守っていた部屋の障子が静かに開きました。
そこに立っていたのは、橘恭太郎さんだった。
「……南方先生。少し、桜子殿とお話しさせてください」
恭太郎は、いつになく真剣な眼差しで桜子の傍らに腰を下ろしました。仁が部屋を去ったあと、彼は静かに、けれど力強く語り始めた。
「……桜子殿。私もまた、武士として『潔く死ぬこと』こそが美徳だと教えられてきました。……ですが、あの日、大坂から戻られた家茂公の最期を、そして沖田殿の覚悟を聞き、私は思い至ったのです」
恭太郎は、桜子の手元にある、一口も付けられていない冷めた粥を見つめた。
「……本当の勇気とは、死ぬことではなく、生きてその志を継ぐことではないでしょうか。死んだ者のためにできることは、共に死ぬことではありません。その者が生きたかった『明日』を、私たちが代わりに、泥を啜ってでも生き抜くことです」
恭太郎の、武骨で真っ直ぐな励まし。
「……貴女が倒れれば、沖田殿の死は、ただの悲劇に終わってしまいます。それで良いのですか。……誰が彼を思い出してやれるのです」
その一言が、桜子の凍りついた心を、激しく揺さぶり、沖田の言葉を思い出した。
『……怖いんです。桜子さん。……死ぬのが、怖いんじゃない。私が消えた後、誰も私を思い出さなくなるのが……。私の振るいたかった剣が、ただの暴力として歴史に埋もれてしまうのが、たまらなく怖い』
桜子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……忘れたくない。でも、苦しいの……。私だけ生きていくのが、苦しいの……」
「……その苦しみを背負って、生きるのです。……私も、共に背負います。ですから……」
恭太郎は、震える手で桜子をそっと抱きしめました。
武士としてではなく、一人の男として。
それから匙を取り、桜子の口元へ運びました。
桜子は泣きながら、その一口を、ゆっくりと、大切に飲み込んだ。
沖田はもういない。けれど、彼が守った未来は、今、この暖かい粥の熱さの中に、確かに息づいていた。
桜子は、恭太郎さんの支えを借りながら、再び「生きる」という一歩を、震える足で踏み出そうとしていた。