第10章 有為転変
和宮様は、声を殺して泣きながら、家茂公が横たわる御間の内へと駆け込みました。私は仁先生と共に、部屋の入り口に背を向けて立ちました。
「……桜子さん。これが、私たちができる最後の『治療』ですね」
仁先生の呟きに、私はただ涙を流して頷きました。
襖の向こうから、和宮様の咽び泣く声と、それに応える家茂公の、消え入りそうな優しい声が聞こえてきました。
「……和宮……。約束、守れず……すまぬ……」
「……いいえ、いいえ……。よう、お帰りくださいました……。よう、私の元へ……」
西陣織の端切れが、二人の重なり合った手の中で、朝日に照らされて輝いていました。
それは、三百年続いた徳川の歴史の中で、最も「人間らしい」最期の瞬間だったのかもしれません。
やがて、部屋の中から啜り泣きだけが聞こえてくるようになりました。
慶応二年七月二十日。
徳川家茂という一人の青年が、最愛の人の腕の中で、重すぎる将軍という肩書きを脱ぎ捨てて旅立ちました。
私は髪に刺さった桜の簪をぎゅっと握りしめました。
救えなかった命。けれど、守り抜いた心。
仁先生と歩んできたこの幕末の道が、間違いではなかったと、冷たくなっていく家茂公の穏やかな死顔が教えてくれているようでした。
「……お疲れ様でした、上様。……ううん。さよなら、家茂さん」
江戸の空は、どこまでも高く、どこまでも哀しく、晴れ渡っていました。