第10章 有為転変
第58話:最期の贈り物
江戸へ向かう船の甲板に、夜の波音が静かに響いていました。
客室の隅、微かな灯火の中で、家茂公は震える手で懐から一枚の布を取り出しました。それは、鮮やかな色彩を放つ、美しい西陣織の端切れでした。
「桜子……。これを、和宮に……。大坂で、あの子が喜ぶ顔を思い浮かべて、買い求めたものだ……」
「上様……。ご自分で、直接渡してください。もうすぐ、もうすぐ江戸ですから」
私の言葉に、家茂公は力なく微笑みました。その瞳には、すでにこの世のものではないような、透き通った光が宿っていました。
「……余は、もう、十分だ。……この布が、あの子の涙を拭うものになってくれれば、それで良い……」
江戸に到着したとき、夜明けの光が江戸城の石垣を白く染めていました。
家茂公の命の灯火は、いまにも消え入りそうなほど細くなっていました。本来、将軍の最期には多くの御側御用取次や奥医師が詰め詰め、一刻一秒を記録するのが「儀式」としての死です。
けれど、私はその鉄の掟を無視しました。
「……天璋院様、お願いです。今だけは、すべての者を遠ざけてください」
私の必死の訴えに、天璋院様は沈黙の末、静かに頷かれました。
「……責任は、私が持つ。……和宮、行け。上様の元へ」