第1章 幕末への導標
「これです……っ」
仁先生はそれを受け取ると、迷いなく少年の傷口に差し入れた。
「……止まった。やはり、未来の道具は素晴らしい……」
先生は手際よく麻酔を打ち、傷口を洗浄していく。だが、縫合の段階で、先生の手が止まった。
「……糸が足りない。絹糸を煮沸している時間は……」
「先生、これを使ってください!」
私は、ポーチの奥底にあった「ナイロン製の縫合セット」を差し出した。針と糸が一体になった、現代の外科医には当たり前の、けれどこの時代には存在しない魔法の糸。
仁先生は私を一度だけ見つめ、深く頷いた。
「……助かる。 桜子さん、君がこれを持ってきてくれなければ、この子は助からなかったかもしれない」
一針、また一針。
静まり返った部屋に、シュッ、シュッという糸が肉を通る音だけが響く。
私はただ、少年の手を握り、祈ることしかできなかった。
治療が終わる頃には、夜の帳が完全に下りていた。
少年は規則正しい寝息を立て始め、咲さんは安堵のあまり座り込んだ。
「…… 桜子様。貴女は、一体何者なのですか?」
咲さんの真っ直ぐな瞳が、私を射抜く。
彼女の足元には、私が手渡した「プラスチックの包装ゴミ」が落ちていた。江戸の人間が見れば、この世のものとは思えないほど滑らかで、透明な、未来の残骸。
「私は……」
答えに詰まる私の横で、仁先生が少年の手を拭いながら静かに言った。
「……彼女は、私の弟子です。江戸の医学を変えるために、遠いところから来てくれた……大切な仲間です」
「弟子」という言葉に、胸の奥が熱くなる。
私はまだ、血を見るのが怖いし、自分をダメな人間だと思っている。
けれど、今日、私の手が差し出した一本の糸が、確かに一人の少年の命をこの世に繋ぎ止めた。
おじいちゃん。
救急セットを持ち歩けって言ったのは、こういうことだったの?
私の「江戸での第一歩」は、血の匂いと、確かな命の鼓動と共に刻まれた。