第10章 有為転変
「……上様」
仁先生の声が、苦悶に満ちて震えていました。
「……医者の本分は、命を救うことです。……死に向かう手助けをすることは、できません」
「南方よ。……『救う』とは、ただ心臓を動かし続けることだけを指すのか? ……余の魂を、この重荷から解き放ってくれることもまた、救いではないのか」
家茂公の澄んだ瞳が、仁先生を真っ直ぐに見つめました。
将軍として死ぬのではなく、一人の人間として、愛する人の待つ場所へ魂を還したい。それは、三百年続いた徳川の歴史の終焉を、自らの死で以て象徴しようとする、あまりにも気高い覚悟でした。
「……おじいちゃん。……どうすればいいの」
私は泣きながら、仁先生の白衣を掴みました。
教科書に書かれた「慶応二年七月二十日、家茂、大坂城にて没す」という文字が、現実の重みとなって押し寄せてきます。
「……桜子さん。……歴史は、変わらないのかもしれません。ですが、その『死の意味』だけは、変えることができるのかもしれません」
仁先生は、深く、深く頭を下げました。
「……承知いたしました。……上様。……江戸への旅路、この南方仁、そして桜子が、最後の一刻までお供いたします」
その夜、大坂城から秘密裏に、一艘の船が江戸に向けて出航しました。
公式には「上様崩御」の報が流れる中、私たちは、今は静かに眠る一人の青年と共に、月明かりの海へと漕ぎ出しました。
回廊の端で、沖田さんが静かに刀を収め、遠ざかる船に向かって深く一礼しているのが見えました。
徳川の黄昏。それは、一人の人間が、自分自身の人生を取り戻そうとする、孤独で美しい夜明けでもありました。