第10章 有為転変
第57話:徳川の黄昏、個の夜明け
仁先生の懸命な処置と心臓へのマッサージにより、家茂公の呼吸は奇跡的に安定を取り戻しました。しかし、意識を取り戻した家茂公が最初に口にしたのは、感謝の言葉ではありませんでした。
「……もう、よい。……もう、疲れ果てたのだ」
微かな、けれど拒絶の色の濃い声でした。
仁先生が点滴の準備をしようとする手を、家茂公は震える手で優しく押し止めました。
「南方、桜子。……余は、徳川の将軍として、十分すぎるほどに嵐の中を歩んできた。……だが、今はもう、一人の男として、静かに目を閉じたいのだ」
「何を仰るのですか! せっかく一命を取り留めたのに! 今ここで治療をやめたら、江戸へ戻る体力が……」
私の叫びに、家茂公は悲しいほどに穏やかな微笑みを返しました。
「……江戸へ、帰りたいのだ。……将軍としてではなく、和宮の夫として。……死にゆく者の我儘だと思ってくれぬか。……これ以上、余をこの冷たい城に、政治の道具として繋ぎ止めないでくれ」
家茂公の願い、それは「治療の中止」と「江戸への移送」を意味していました。
この衰弱した体で江戸への長旅に出る。それは、医師である仁先生にとっても、私にとっても、彼を死に追いやることに他なりません。