第1章 幕末への導標
「私の話を……? 未来で?」
「はい。おじいちゃん…南方仁はいつも神田川を見ながら言っていました。『あの日、俺は確かにあそこにいたんだ』って。そして、私たち家族にこれを……『もしお前たちが私と同じ目にあっても、苦労させないためだ』って言って、強制的に持たせていたんです」
私はポーチを開け、中身を畳の上に広げた。
その中身は明らかに“医療の心得がある者が使う”品々が入っていた。仁がこの時代に持ってきた医療用パッキンをより充実させたもの、滅菌されたガーゼ、医療用ネット、局所麻酔薬、注射器、エピペン、そして現代の強力な抗生剤。
「これは……!」
仁先生が、震える手でそれらに触れた。
「私が……私が喉から手が出るほど欲しかったものばかりだ。……そうか。」
先生の瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。
今の先生は、毎日必死で道具を手作りし、薬を精製している。その苦労を知っている「未来の自分」が、時を超えて孫娘に託した装備。それは、医学的な価値以上に、深い愛情の結晶だった。
「先生、私は医者になんてなれないと思っていました。みんなみたいに強くないし、血を見るのも怖くて……。でも、おじいちゃんがこれを私に持たせたのは、きっと理由があるんですよね?」
仁先生は私の目をまっすぐに見つめ、力強く頷いた。
「 桜子さん。君が医者を目指していなくても、君のその手には『命』を繋ぐ道具がある。そして、私にはない『未来の知識』がある。……どうか、助けてくれないか。この時代で、共に戦ってほしい」
その言葉は、劣等感に苛まれていた私の心に、小さな、けれど確かな灯をともした。
私は医者ではない。けれど、この救急セットと、おじいちゃんから聞いた物語があれば、私にしかできないことがあるのかもしれない。
その時、廊下を急ぎ足で駆ける音が聞こえた。
「南方先生! 大変です、近所の子供が……!」
咲さんの切迫した声が響く。
私たちは顔を見合わせた。
私の、江戸での「試練」が、すぐそこまで迫っていた。