第3章 7〜8
納屋へ戻った夜、木箱の上に置かれた本を手に取り、無造作にページを捲ったときのことを思い出す。
「これはオクジー君の書いてる本、とやらか。まったく……貴族でもないのに寄付したり、知識階級でもないのに執筆したり……やはり世俗の者が考えることはわからん」
そう呟きながら、指は止まらなかった。気づけば最後まで読み耽っていた。
自分より劣ると、どこかで断じていた男の文章に、夜更けを忘れていた。
あのとき胸の奥に生じた、わずかな熱。
それを彼は理屈で説明できなかった。理論では測れない種類の揺らぎだった。
そして、もう一人。
左遷前、写本室で出会った女の声が、ふと脳裏をよぎる。
「正確なまま燃えてなくなるよりは、少し歪んでも、生き残る方がいいと思います」
あのときは退けた言葉だ。
誤った形で残るくらいなら、残らない方がましだと、迷いなく切り捨てた。
一方で、いま自分が残そうとしているのは、理論でも証明でもない。オクジーの物語だ。
歪むかもしれない。それでも、生き残る可能性がある。
──誰かが書き写していれば、終わらない。
胸の奥で、あの声が静かに重なったとき、写本室で微笑んだ女の顔が、なぜかはっきりと浮かんだ。