第4章 9〜10
夜の牢は、石壁に囲まれた冷気の塊だった。
残すつもりはないと断じていた石箱。その中身は、皮肉にも自らの口から零れ落ち、異端審問官の手へ渡った。
計算も理論も、彼が守ろうとした研究成果も、今は奪われた側にある。
だが──。
バデーニは静かに息を吸う。
「……地動説は、まだ終わってない」
それは敗北宣言ではない。失われた事実の確認でもない。
予防策を、すでに仕込んでいたことの告白だった。
復元するのは論文ではない。体系だった理論でもない。オクジーの書いた物語だ。
「しかし……何かを残したところで、バデーニさんの利益にならないのでは……」
オクジーの声は疲労に滲みながらも、どこか本質を突いていた。
バデーニはわずかに顔を歪め、吐き捨てるように言う。
「実はまったくその通りだ。この世に何かを残して、全く知らない他者に投げるのは、私にとってなんら無意味で、無価値だ!」
声が牢に反響する。怒りとも諦めともつかぬ強さで響いた。
しかしその激しさは、次の瞬間に静まる。
呼吸を整え、低く言い直す。
「しかし、不思議なもので……それを無益だと判断しない領域もあるそうだ。たとえば……“歴史”とやらがそうらしい」
歴史。
自分が侮り続けてきた概念。数値でも証明でもない、曖昧で不可視な流れ。
だが、もしその流れの中で誰かがあの文章を読み、空を見上げるなら──それは無価値ではなくなる。